(つづき)


さて、長門石バス停から徒歩1分の「七木地蔵尊」。
休憩所のような場所にはバス停の時刻表も貼ってありました。


七木地蔵尊由来。霊験あらたかな地蔵様です。
もともと、七本の古松の根元にあったことから「七木」という名前がついています。
順路に従って見ていきます。


乱世の頃、肥前の武士・龍造寺隆信が、豊後の大友氏と一戦を交えることになり、勝利祈願としてこの七木地蔵尊にしたところ、見事勝利。
彼はこの地蔵を大切にしたい思いから、洪水の多かった長門石から、洪水の心配がない千栗に移しました。すると翌朝、なぜか地蔵尊は元の場所に戻ってきていました。
洪水に合わないようにと千栗に移されたのに、わざわざこっちに戻ってきたということは、「どんな洪水が起きても、長門石の人を見捨てることは出来ない」という慈悲があるからなのでは?と村人たちはこの地蔵尊を大切にするようになりました。


筑後地方一円で信仰を集めており、いろいろなところからお参りに来るそうです。
お陰様で、十三佛も線香の煙で真っ黒。

そしてこれが七木地蔵尊。
ずっと昔から大切にされてきたもので、非常に保存状態が良いです。室町時代や久留米近郊の仏教芸術の中では非常に重要なものとして観られており、芸術品としての価値も高いそうです。
実は昭和49年の区画整理の際にここに移されてきたものなのですが、そのために七木地蔵を掘り起こしたらまた色々なものが出てきたんだそうです。

「私は七木地蔵尊の化身です!」とか言ってる人がいたらそりゃ困りますね。


これからも、長門石に平和をもたらし続け、筑後地方の人々の心の拠り所としての存在を保っていてほしいものです。


さて、長門石バス停から徒歩1分の「七木地蔵尊」。
休憩所のような場所にはバス停の時刻表も貼ってありました。


七木地蔵尊由来。霊験あらたかな地蔵様です。
もともと、七本の古松の根元にあったことから「七木」という名前がついています。

順路に従って見ていきます。


乱世の頃、肥前の武士・龍造寺隆信が、豊後の大友氏と一戦を交えることになり、勝利祈願としてこの七木地蔵尊にしたところ、見事勝利。
彼はこの地蔵を大切にしたい思いから、洪水の多かった長門石から、洪水の心配がない千栗に移しました。すると翌朝、なぜか地蔵尊は元の場所に戻ってきていました。
洪水に合わないようにと千栗に移されたのに、わざわざこっちに戻ってきたということは、「どんな洪水が起きても、長門石の人を見捨てることは出来ない」という慈悲があるからなのでは?と村人たちはこの地蔵尊を大切にするようになりました。


筑後地方一円で信仰を集めており、いろいろなところからお参りに来るそうです。
お陰様で、十三佛も線香の煙で真っ黒。

そしてこれが七木地蔵尊。
ずっと昔から大切にされてきたもので、非常に保存状態が良いです。室町時代や久留米近郊の仏教芸術の中では非常に重要なものとして観られており、芸術品としての価値も高いそうです。
実は昭和49年の区画整理の際にここに移されてきたものなのですが、そのために七木地蔵を掘り起こしたらまた色々なものが出てきたんだそうです。

「私は七木地蔵尊の化身です!」とか言ってる人がいたらそりゃ困りますね。


これからも、長門石に平和をもたらし続け、筑後地方の人々の心の拠り所としての存在を保っていてほしいものです。
車内の自動放送が、当初「しちき地蔵尊前」と言っていたのが印象深いです。