※今回の記事は百数十行ほど文章が続くだけですので、携帯電話の人からは読みにくいかもしれませんが、どうかご勘弁を。

日本国憲法第21条では「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」とされており、すなわち日本国民には表現の自由が保証されています。
拡大解釈をすれば、芸術等の創作活動にも「創作の自由」が、その他にも色々な「表現の自由」が存在していることになります。

そんな中最近、「東京都青少年健全育成条例」の改正をめぐり、色々と話題になっています。
青少年健全育成条例というものはほとんどの都道府県で存在しているのですが、なんで東京都のそれだけが際立って問題になっているのかというのを知っている人も少なくないでしょう。
その条例自体は昭和39年に成立したもので、これまでに幾度と無く改正を繰り返していますが、今回の改正で問題になったのが「非実在青少年」に関する規制。つまり、一般的に"2次元"と言われている、漫画やアニメの登場人物にまでその条例の手が及ぶことになりました。
改正によって追加される条文のうち、

第七条の二
 年齢又は服装、所持品、学年、背景その他の人の年齢を想起させる事項の表示又は音声による描写から十八歳未満として表現されていると認識されるもの(以下「非実在青少年」という。)を相手方とする又は非実在青少年による性交又は性交類似行為に係る非実在青少年の姿態を視覚により認識することができる方法でみだりに性的対象として肯定的に描写することにより、青少年の性に関する健全な判断能力の形成を阻害し、青少年の健全な成長を阻害するおそれがあるもの。

第九条の二
 第八条第一項第二号の東京都規則で定める基準 非実在青少年を相手方とする又は非実在青少年による性交又は性交類似行為に係る非実在青少年の姿態を視覚により認識することができる方法でみだりに性的対象として肯定的に描写することにより、青少年の性に関する健全な判断能力の形成を阻害し、青少年の健全な成長を阻害するおそれがあるもの。

この二つで「非実在青少年」について言及されています。
漫画やアニメに出てくる登場人物のうち、音声とか容姿とか、その他もろもろで明らかに18歳未満だと断定できるようなもののことを非実在青少年というのですが、その非実在青少年を性的対象として扱ったり、非実在青少年が関わる性的干渉が制限されるわけです。
別にこれだけであればいいのですが、実際に有害図書を規制する条例は別に制定されていてこの条例が制定される根拠が曖昧であることと、実際の青少年・未成年だけでなく、一般成人の思想の自由までも奪ってしまうこと、そして漫画家やクリエイターらの表現の幅の縮小になるのです。そしてなにより、これは表現の自由に対する大きな侵害です。
だいたい、提示された条文が曖昧で、下手をすれば恣意的に拡大解釈をされてしまいりかねません。
どのような容姿であれば、どのような言動であれば、いったい何を以て、18歳未満と判断されるのか、あるいは条例の中に定められている性的干渉とは具体的にどんな行為か、書かれていません。

実際に未成年が関わる性行為の描写がある作品の中には有名なものもあり、手塚治虫の「火の鳥」、紫式部の「源氏物語」などが挙げられます。
このことに関して都副知事はTwitterで「傑作であれば、条例なんてないも同然」という旨のツイートをしており、規制する側が如何にこの条例を適当に運用させようとしているかがわかります。
更には都知事は規制反対派に対して「変態は気の毒。DNAが狂っている」という旨の発言をしており、都のお偉いさんはどいつもこいつも適当なことばかり言ってこの適当な条例を制定させようとしているのです。

そして挙句の果てには「非実在犯罪」という、漫画・アニメ上の暴力描写、あるいは麻薬や殺人などのような、現実で犯罪となりうる事柄までも制限してしまおうなんて言う話まで条例に加えられてしまう始末です。
犯罪を犯すのではなく、犯罪を表現することを規制するということは、何かオカシイのでは?と疑問を投げかけざるを得ません。

こんなこと書きましたが、別に私は児童ポルノを肯定しているわけではなく、このような適当な人間が制定した、曖昧な条例のせいで表現の自由が制限されるなんて、そんな下らないことが起きてしまっては不愉快極まりないからです。
第一、ほとんどの出版社は東京に本社を置いています。東京でその条例が可決されれば全国に影響が出てしまいますよね。の条例だからといって私もおちおちしていられないわけです。

事実、多数の漫画家・出版社はこの条例に猛反対しており、反対している漫画家にはちばてつや氏、秋本治氏、やなせたかし氏など、多くの有名な方もいます。
出版社に関しても、これまでに角川書店、集英社などが「東京国際アニメフェア」への出展取り下げを表明しており、この条例をめぐる問題は、可決されて以降も、更に熱を帯びてきています。

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さて、言論の自由といえば、「自由の国」アメリカ。
そのアメリカでも、日本とはまた違った理由で言論の自由・表現の自由が制限されかけていっています。

アメリカは人種のサラダボウルとも言われるほどに多くの国籍・人種の人間が入り交じった国ですが、そうなればもちろん宗教もたくさんアメリカ国内に存在していることになります。
そのなかでもアメリカ人の言論の自由を迫害していこうとするのがイスラム教徒のアラブ系アメリカ人です。ここで言うアラブ系アメリカ人はグリーンカード、すなわち米国籍を持った人々のことです。
そのアラブ系アメリカ人たちは当然のごとくイスラム教を信仰しており、中東地域に住むムスリム(アラビア語で「イスラム教徒」の意)たちと同じようにコーランの教えを守って生きている敬虔なムスリムです。

しかし、ムスリムは政治の世界でも何でも「イスラム原理主義」を突き通す姿勢を貫いており、それはやはりアラブ系アメリカ人でも同じです。
アメリカ国内の報道・出版・言論…何から何まで、もしもムスリムに不利なことがあれば自分が政治に関係なくてもどんどん口出しをしていきます。

オランダ人の映画監督テオ・ファン・ゴッホ氏という方がいたのですが、彼は日ごろからイスラム教を痛烈に批判し、そのたびにイスラム過激派の批判を受けていたんですね。アメリカでは反イスラム主義者として有名でした。
で、「Submission」という映画でイスラム世界における女性への暴力を扱ったところ、イスラム教徒から「アッラーの教えを誤って認識している」と猛烈な批判を受け、しまいには殺害予告まで出されました。最初テオ氏はこれを真剣に受け止めていなかったのですが、結局2004年、アムステルダムでモロッコ人に銃殺されてしまいました。

もちろんこの事件はアメリカでも話題になり、そこでアメリカのムスリムコミュニティがさらに調子に乗り始めたわけです。
アメリカではいつムスリムから攻撃を受けるかわからないと言って、「モハンマド」「ムスリム」などなど、イスラム教に関する言葉の何から何までに敏感に反応するようになり、そんな言葉を、「批判的な内容でなくても公共の電波で流すなんてもってのほかだ!」という風潮に自然となっていきました。

さてそんな中、それに対抗するかのごとく、2010年の4月14日、アメリカのケーブルテレビ放送局「コメディ・セントラル」でモハンマドを大々的にネタにした番組が放送されました。その番組は「サウスパーク」というコメディアニメで、もっぱら社会風刺ネタがほとんどの18禁指定番組です(ちなみに私も大ファンですw)。
実はその時サウスパークの第200回記念の話で、「これまでサウスパークでこき下ろされた有名人が、サウスパーク(番組名だが、主人公たちが住む町の名前でもある)に対して街ごと集団訴訟を起こす」という内容でした。

このアニメの主人公、スタン・マーシュは学校でチョコレート工場へ見学に行った際にそこで役者として働くトム・クルーズを見つけ、箱にチョコレートの入った袋を詰めているトムに向かって「Pouch packer(袋を詰める人、あるいはフクロを咥える人)」と言い放ち、トムクルーズを怒らせます。
トム・クルーズは、ジェニファー・ロペス、ミッキー・マウス、パリス・ヒルトンなどなど超有名人を集めて集団訴訟の話を提案するのですが、その集団訴訟の話をサウスパークの住民たちに伝える際に、訴訟を取り下げる条件として提案したのが「モハンマドを連れてくること」だったんです。
これがなんでだったかというと、偶像崇拝が禁止なイスラム教ではモハンマドの絵を描くなんてもってのほかであり、“自分たちのようにアニメなどで描かれて馬鹿にされることがない“ので、そのモハンマドの力をモハンマド自身から得ようという企てがあったから。
そこでスタンをはじめとする主人公4人はイエスやブッダ達の元へ向かい、なんとかモハンマドをサウスパークにつれていけないかと直談判。結局トレーラーに載せ、完全に姿が見えない状態にして連れて行くことに成功しました。
というのが第200話の内容。事実この話の中で何度かモハンマドが表に出てくるシーンはあったのですが、演出の一つとしてその姿は「CENSORED(検閲)」というモザイクで隠されたままでした。

モハンマドを笑いのネタにしたので、もちろんこれにイスラム過激派が飛びつきます。
第200話の放送終了後にイスラム過激派団体のブログで、サウスパークの作者、トレイ・パーカーとマット・ストーンの殺害予告が「二人をテオ氏のような状態にする」という文言で出され、コメディ・セントラルの関係者は大慌て。ただ2人はこのことについてあまり気にしていなかったようです。

そして4月21日、第200話の続きである第201話が放送されるわけですが、コメディ・セントラルは殺害予告を受け、放送局の判断で番組の内容を独自に改変しました。具体的には「モハンマド」という言葉すべてに規制音(ピー音)がかぶせられたというものだったのですが、これのせいで終始規制音だらけになってしまいました。
201話では、サウスパークに異常を察知したイエスやブッダら「スーパー・ベスト・フレンズ」が駆け付けます。しかし、有名人たちの他にもジンジャー(色白、赤毛の特徴を持つ人間に対する蔑称。劣性遺伝子だの、魂がないだのとやはりサウスパークでかなり馬鹿にされてきた)キッズまでもがモハンマドを要求してきます。
トレーラーからついにモハンマドを出さなければいけなくなった主人公4人は熊の着ぐるみを着せてモハンマドを表に出すのですが、実際その中身はサンタ。それがバレてジンジャーキッズと有名人は激怒し、ついには「CENSORED」で隠れたままのモハンマドを出すことになりました。
モハンマドを得たトム・クルーズは専用のマシンでモハンマドの力を手に入れ、彼にも「CENSORED」のモザイクがかかるようになりました。狂喜乱舞するトムを抑えるために、スーパー・ベスト・フレンズの一人、「シーマン(Seaman)」がとびかかります。するとそれを見たスタンは「Semen is on his back!(シーメンがトムの背中に!)」と言い放ち、トムからモザイクが消えます。あわて始めたトムに、スタンの友達、カイル・ブロフロフスキーがモハンマドの力が「馬鹿にされない」力ではないのだという説明を始めます。
ここからがいわゆる「まとめ」といわれるところなのですが、ここはすべて規制音がかかり、オチが何なのか分からない状態になってしまいました。
そして、荒らされてしまったサウスパークの町を再建しようというところで話は終わり。もちろん作者の二人は放送局側に対して抗議をしました。「どんなことでも恐れずにやってのける」というサウスパークのスタンスが崩されたのですから。

サウスパークはアメリカでもかなり影響力のあるアニメで、その知名度は「ザ・シンプソンズ」と並ぶほどです。
そんなに有名なアニメがこのようにイスラム原理主義者らの手によって間接的ではあっても改変されたことは多くの批評家からの批判を浴び、それとともにイスラム原理主義者の考え方がここまで「表現の自由」に影響を与えたことについて、アメリカ中で話題となり、更にイスラム教に対する考え方が厳しくなっていきました。

こういうと、あたかもムスリムだけが悪いように見えます。
しかし、アメリカ人がイスラム関係のことを恐れるようになったのは、実際はムスリムのイスラム原理主義によるものより、「自由主義左翼」と呼ばれる人々たちによるものが大きいと言えるかもしれません。
左翼自由主義者はリベラル左翼とも呼ばれますが、そのような人々はイスラム過激派のそのような声明を更に煽り立て、テレビ番組で誰かがちょっとでもイスラムについて批判的な発言をすればその人を人種差別だの何だのととにかく晒し上げます。あるいは、黒人を黒人といっただけで、人種差別だと声高に叫びます。しつこく。
人種差別関連以外にも、例えば「性犯罪の抑止法について考えようとした人」に対して「性犯罪のことについて考えること自体が被害者にとっては大きな迷惑だ」と主張するなど、とにかく、何から何まで、物事はすべて「当たり障りのないように」進めろという、完全に自由をつぶすような、間違った"自由"を推し進めていこうとしています。
そしてそれに反論する者がいれば「それは私たちの自由を侵害する行為だ」と、自由を"自由"ではねのける自分勝手な手法を取ります。
本物の自由を叫ぼうとする人が自分の意見を抑えているのをさげすむかのように、自由主義左翼たちは傍若無人に自分の意見を叫び、人々に間違った"自由"の形を植え付けてゆき、人は「当たり障りのない」、自由のかけらもない表現を強いられるわけです。

これはサウスパークでもネタにされたことですが、別に言論の自由に限らずとも、アメリカでは一般的なクリスマスにまでケチをつけ、「クリスマスツリーは異教徒にとっては不愉快なものだろう」と言って町からいっさいがっさいツリーが消えたりするなんてことが実際に起きているんです。
こういうことを主張する人が少なくとも、とにかく主張しまくるので、人々はこうした自由主義左翼による過激な批判をおそれて、クリスマスツリーを置かないようになる。それがどんどん波及して、更に他の人の自由を丸めこもうとする…そうやってどんどんアメリカから「言論の自由」に限らず、いろいろな自由が失せていっているのです。
こうなればもう「自分たちの意見こそが王道だ」と思っている自由主義左翼の思うつぼです。
しかし、そんな意見に屈して自由が奪われないようにしなければいけません。

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もしも法律や憲法で自由が保障されていたとしても、実際には身の危険を冒してまでモノが言えなくなってしまったとき、表現できなくなってしまったとき、人の意識の中にそんな勇気がなくなった時には、自由というものは本当に再び自分たちで取り戻しに行かなければならないものとなってしまっているのです。